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今回は、香川県観音寺市琴弾公園周辺をONE
DAY TRIPです。観音寺市は、平成17年に大野原町、豊浜町と旧観音寺市が合併してできたまちです。合併によって、愛媛のすぐお隣のまちとなりました。
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香川県に入り、まだまだ国道11号線を東を目指して走ります。三豊総合病院近くの交差点から国道を離れて、海岸線に近い道に進路を取り、広々とした埋め立て地を左手に見ながら、真っ直ぐに続く道路を進みました。やがて正面に琴弾山が見えてきました。財田川に架かる新琴弾橋を渡れば、今日の目的地『琴弾公園』に到着です。
まず最初に琴弾山山頂へドライブです。琴弾山は高さ60bの小さな山ながら、ドライブウエイの両脇はうっそうと樹木が茂る原生林です。車を停めて森の様子をじっくりと眺めたいのですが、ドライブウエイは一方通行の狭い道で、車を停めるような場所もありません。目にしっかりと景色を留めながら、山頂へと向かいました。
山頂には象ガ鼻と呼ばれる大きな岩があり、岩の上に立って下を眺めると、松の林に囲まれて『寛永通寶』の銭形が見えていました。さらに場所を展望台に移して、眼下を眺めます【写真1】。こちらの方が銭形の正面に近いような気がします。この展望台には音声ガイドがついていて、銭形の大きさや謂われを紹介しています。
琴弾山の頂上からの見所は、銭形ばかりではありません。銭形の向こうは、地元の人たちが海浜植物の保存に力を入れている『有明浜』です。遠浅の浜辺で、夏には多くの海水浴客で賑わうとのこと。松の緑と白砂が見事に広がっています。砂浜の先には瀬戸内海が南北にゆったりと広がり、おおらかな風情です。穏やかな海に島があちらこちらに浮かんでいる様子は、いくら眺めていても飽き足りない気がしました。
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山頂後方の小径を辿っていくと、お社の裏手に出ました。このお社は、『讃岐琴弾八幡宮』の本殿です【写真2】。琴弾公園入口に大きな鳥居があって、そこからこの本殿まで381段もの石段が続いているのだそうです。山頂の境内には絵馬堂【写真3】があり、たくさんの絵馬がかけられていました。絵馬コンクールが毎年行われ、全国から絵馬が奉納されています。境内からの眺望は、松の大木に視界を遮ぎられているのですが、絵馬堂の横にほんの少し途切れている所があり、そこからは観音寺市内が一望できました【写真4】。
苔生した玉垣や所々に見える小さなお社に興味を惹かれて、少し石段を下りてみました。石段の、右に折れ、左に折れしている様子が、興味をさらに掻き立てます【写真5】。それでも車を山頂に置いてあるものですから、続きは下からということで、ひとまず引き上げることにしました。
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ドライブウエイを下りて、次は寺社めぐりです。琴弾山の北側をぐるりと回って、68番札所『神恵院(じんねいん)』と69番札所『観音寺』を訪れました。山門の右には『四国第六十八・六十九番霊場』と書かれ、左には『七宝山 観音寺 神恵院』と書かれてあります。ここは、四国八十八カ所唯一の1カ所で2つの霊場がある場所なのです。山門【写真6】をくぐって境内へと向かいました。
境内でひときわ目を引くのが、中央の大クスノキです。「立っている」というよりも、「座っている」と表現するのがぴったりなほど、大きな根が盛り上がって張っています【写真7】。右手には観音寺【写真8】があり、神恵院は左手です。さすがに札所であるだけに、お遍路姿の参拝者が次々と訪れては般若心経をあげていました。
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神恵院の本堂は、もとはもう一段上にあったらしく、階段下には本堂が移転した旨の立て札がありました。神恵院の新しい本堂の入り口【写真9】は、説明がなければちょっと判らないかも知れません。コンクリート造りの近代的な建物の中に入り階段を上がると、正面に本堂がありました【写真10】。本堂横から外に出て、庭の池を眺めながら下りていくと、大師堂の前に出ました。こちらでも手を合わせて、駐車場へ。駐車場右手の遊歩道は、琴弾山のドライブウエイに続いています。
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琴弾山の向かいの山、興昌寺山の麓の根上がり松【写真11】を見学した後、臨済宗のお寺である興昌寺へ。石垣と土塀のシャープな直線に、禅寺の雰囲気を味わいながら境内へと向かいました。境内の左奥に進むと、小高い場所に戦国時代の連歌師で俳諧の祖と言われる山崎宗鑑が結んだ『一夜庵』【写真12】(※下記事参照)があります。雨戸がしっかりと閉じてあって、中をうかがい知ることはできませんでしたが、葦ぶきの厚い屋根は見事です。立て札には、庵の屋根は琵琶湖の葦で葺かれていることと、その葦は山崎宗鑑生誕の地である滋賀県草津市の市民から寄贈されたものであることが記されていました。
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興昌寺を跡にして、琴弾公園入口の『讃岐琴弾八幡宮』へ。第1の鳥居『石之鳥居』【写真13】前には、大きな赤い備前焼の狛犬が座っています。松の生い茂る森の中を、上へ上へと石段が続きます。甲高く鳴く野鳥の声を聞きながら、やがて『木之鳥居』【写真14】までやってきました。木之鳥居の説明文には、「元歴二年源義経が屋島合戦勝利の後、平家追討を祈願して奉納」とありました。元歴二年とは、1185年のこと。保護のためか、屋根が取り付けられて鳥居全体を覆っていました。同八幡宮と源氏との縁は深く、八幡太郎義家は社殿を造営して神馬を奉納し、頼朝は一千貫文の土地を寄進したと言われています。
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琴弾公園の西を流れる財田川には、大小いくつかの橋が架かっています。公園入口の近くには、三連のアーチが珍しい『三架橋』【写真15】が架かっています。昔は琴弾八幡宮へ参賀するための橋として「参賀橋」と呼ばれていたそうです。財田川河口には、温泉施設『琴弾廻廊』【写真16】があり、市内、市外から多くの人が訪れています。琴弾公園周辺は、自然と歴史を楽しむことのできるエリアです。
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『琴弾』のいわれは? |
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大宝3年(703年)、海浜に一艘の船が現れて、船の中からは妙なる琴の音が聞こえてきました。人々が近づくと「われは八幡大菩薩なり」と声がしました。上人が「信じがたし」とその証を求めたところ、その夜、海は竹林となり、夜明け前には砂浜が青々とした松の林と化しました。驚いた上人は船を山の上に引き上げ、琴を添えて、琴弾八幡宮としてお祀りしたということです。《讃岐琴弾八幡宮のリーフレットを要約》 |
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山崎宗鑑とはどんな人? |
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興昌寺境内に置かれている宗鑑の句碑
(句意:貸衣装の夜着の袖を
霜に濡らしている橋姫さん) |
宗鑑は寛正六年(1465年)滋賀県に生まれ、幼名弥三郎範重といい、侍童となった。長じて仏門にはいり名を宗鑑とあらため、明応年間(1492年)京都山崎に住んでからは山崎の姓を名乗って歌道、書道を教え、風月を友とし、ことに俳諧連歌に親しんだ。親交のあった京都東福寺の住僧梅谷が興昌寺に帰山したのを機に梅谷を訪ね、寺のほとりに庵をむすんだ。『上は立ち中は日ぐらし下は夜まで一夜どまりは下々の下の客』と題し、人を泊めること一夜以上を許さず、このことから一夜庵と名付けた。
その生活は常に簡素で、天文二十二年(1553年)十月八十九歳で没した。当時流行した貴族文学の連歌や和歌にあきたらず、これを簡明な俳諧俳句に改めたことから、現代俳句の元祖とされている。一夜庵に住んでからの創作活動は活発で、多くの俳人が訪れた。『かし夜ぎの袖をや霜に橋姫御』は、その代表といわれている。《興昌寺境内に設置された一夜庵説明文より抜粋》
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