
お作さん (お作池石碑より) |
お作さんとは、紀州徳川家第7代藩主宗将公の生母で、西条松平家第2代頼致(よりよし)公(=後の紀州徳川家第6代藩主宗直公)の側室『永隆院』のこと。お作さんは、1702年(元禄15年)に旧土居町津根の八日市で生まれました。父・服部幸左衛門は西条藩一柳家に仕えていましたが、一柳家が播州へ転封された後もそのまま残り八日市に土着したと考えられています。そしてこの間に、大福寺の檀家となったようです。

お話をしてくださった
牧山單道住職 |
一柳家に替わり、西条藩には松平家が入ることとなります。1714年の初夏、2代目頼致公が領内の巡視のために当時の宇摩郡津根郷八日市を訪れました。喉の渇きを覚えた頼致公は、服部幸左衛門の屋敷の門を叩き、一杯の水を所望されました。娘のお作さんが井戸水を汲み上げて、うやうやしく頼致公に差し出しました。その気品ある礼儀正しい振る舞いや人柄が頼致公の目に留まり、西条藩江戸屋敷に出仕することになります。
平成3年に編集された『大福寺誌』には西条誌の引用として「永隆院殿
御容色すぐれて美しくあらせられたのでは無かりし、然れども、いまだ貴からざりし時より、御行儀正しく、御慎深かりし事、村老の口碑に残れり」との一文が紹介されています。決して美人という訳ではなかったけれども、幼い頃から行儀の良さや慎ましさなどの人柄で、多くの人々に慕われた様子が伝わってきます。
頼致公には正室がおらず、お作さんは側室となりました。そのお作さんにさらに転機が訪れます。紀州徳川家当主だった吉宗公が8代将軍となったために、いとこである頼致公が紀州徳川家6代目を継ぐことになり、徳川宗直と名を改めます。お作さんも、55万5千石の大大名の側室になった訳です。1720年には嫡男・宗将(=紀州徳川家7代)が生まれます。他の9人の子どもたちもそれぞれ大名家の跡を継いだり、前田家や細川家や池田家など有力大名に嫁いでいきました。また孫も、紀州徳川家を継いだ他、西条松平家を相続したり大名家に嫁いだりしています。永隆院は、1780年に80年に近い生涯を閉じました。少しも高ぶることなく家臣にまで気を配る人柄から、誰からも深く敬愛されたそうです。

お作さんにあやかって作られた
玉の輿お守り(中央)と安産お守り(右) |
服部氏の菩提寺である大福寺へは、お作さんの生前はもとより没後においても、ゆかりのある品が多数紀州徳川家より奉納されました。お作さんは父母の孝養に厚く、大福寺文書によると1767年の秋のお彼岸には同寺において2日にわたって両親の供養を盛大に行い、米十石の田地を寄付しています。それら田地は、紀州家の声掛かりで西条藩が土居町内の領地で各庄屋に命じてしつらえたとのこと。それで大福寺田と呼ばれる田地が、土居町全域に少しずつできたそうです。住職さんの話によると、お作さんが頼致公にお水を差し上げた八日市辺りにも『大福寺』と名前のついた小字が残っているとのことでした。また1801年に建立された鐘楼には、永隆院が寄贈したとされる梵鐘がありましたが、太平洋戦争時に供出されたそうです。現在は1972年に再鋳された鐘が吊り下げられています。
大福寺には、お作さんさんのような人柄や人生にあやかって幸せなご縁が結ばれますようにと、玉の輿お守りや安産のお守りがあります。一針一針手づくりで作られたもので、住職さんが心を込めてご祈祷をしてくれます。住職さんはたいへん気さくな方で、お作さんさんについて楽しくお話をして下さいました。同寺では座禅会や写経会も行われています。

一宮神社に納められている
常夜灯 |

一宮神社 「永隆院殿生誕之地」碑 |
大福寺を後にし、県道13号線を通ってお作さん誕生の地祈念碑のある一宮神社(=旧土居町津根)へと向かいました。生まれ故郷の産土神を崇敬していた永隆院は、代参を立てて同神社にお詣りし、数々の寄進もしていたそうです。現在も常夜灯が一基残っていました。うっすらとではありますが、三つ葉葵の紋と『永隆院』の文字が見えていました。
県道13号線沿いに、一宮神社からほんの少し東に行った所に、『おさく池
南300m』と書かれた小さな道しるべが出ています。おさく池の中では大きな鯉がのんびりと泳いでいました。すぐ近くには一柳家の陣屋跡があり、辺り一帯には武家の屋敷も立ち並んでいたのだろうと想像をしました。そこから南の高台には、永隆院の父・服部幸左衛門の立派なお墓が残っています。墓地からは陣屋跡から瀬戸内に至る景色がよく見渡せました。

頑丈な石垣に囲まれたお作の父
服部幸左衛門のお墓 |

おさく池には
頼致公に差し出したと言われるお水がある |
お作さんの戒名は『永隆院慈光円寿大姉』。戒名通りに和やかで慈しみ深く、長生きをなさって子や孫と和気藹々と暮らしたそうです。どのような御殿にでも住むことができる身分になりながらも、慎ましい生活をされていたと伝わっています。心美人が求められるのは、いつの時代も同じことのようです。
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