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2008年2月号掲載

豊かな自然と歴史の路 〜松山市九谷地区〜
 松山市の南部に位置し、四国八十八箇所札所2ヵ寺が在す松山市久谷地区(旧久谷村=昭和43年松山市に編入合併)。久谷で最も南で、最も高い場所にある『久谷ふれあい林』では、この秋の育樹祭で、皇族殿下が樹木のお手入れをされることになっています。今回は、古い歴史を誇り豊かな自然が残る久谷地区を巡ってきました。

昭和天皇が作られた歌の記念碑

▼育樹祭の会場へ
 最初に、国道33号線を通って『久谷ふれあい林』へ行ってきました。松山市を抜け、伊予郡砥部町の中心部を過ぎ、山道をぐんぐんと約10分も走ると、再び松山市に入ります。ほどなく松山市久谷町の大久保集落が見えてきました。昭和41年に開催された『第17回全国植樹祭』の会場であり、平成20年度全国育樹祭のお手入れ会場となるふれあい林は、国道から脇の林道に入ってさらに1・3qほどの山の中にあります。
 林道入り口には、植樹祭にちなんで昭和天皇が作られた歌の記念碑が立っています。また、育樹祭のマスコットキャラクター『E〜もりくん』を配したのぼり旗も立っていました。ただし林道は現在道路整備の真っ最中です。少し上ってみましたが、悪路のために先に進むのは断念。見学は、工事が終了してから再チャレンジです。
 久谷地区は北が開けて、東西南の三方が山で囲まれた地形です。R33以外にも久谷へ下りる道があるはずだと思いつつ、道不案内につき取り敢えず国道を引き返して県道194号(久谷森松停車場線)を通って、久谷に入ることにしました。まずは奥久谷まで行ってみました。

葛掛五社神社(かずらかけごしゃじんじゃ)

▼奥久谷〜札所の寺院へ
 道路右手の少し高い所にあるのは、葛掛五社神社です。真新しい1300年祭記念碑(平成19年建立)が立っていました。道路の向こうには清流があり、毎年5月にはこの神社を中心にほたるまつりが開催されています。様々な種類の大木が群生している同神社社叢は、松山市天然記念物に指定されています。社叢を見上げていると、社の裏手の山を登る軽トラックが見えました。道はずっと上まで続いているようです。その道は、R33号線沿いの大久保集落までつながっていることが判りました。

「蛇の釜」への入口

 もと来た道を数百b引き返すと、『蛇(じゃ)の釜』の立て札が…。ちょっと恐い名前です。蛇の釜は久谷川の河床にできた穴で、永年の流れによる侵蝕によってできたもの。川に下りるには藪が深く、直接見ることはできませんでした。雌雄2匹の蛇が棲んでいたとの話も残っています。




ユーモラスな狸の石像が立つ山口霊神

 すぐ近くにある『山口霊神』は、日本三大狸話の一つ『松山騒動八百八狸物語』に登場する隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)を祀っています。ユーモラスな表情の狸の石像が立っていました。さらに道を下って、次に目指すは46番札所浄瑠璃寺です。門前には薄い緑色の外壁の遍路宿『長珍屋』があって、ちょうど良い目印になっています。




浄瑠璃時本堂

 浄瑠璃寺は『御利益のよろずや』と呼ばれて信仰を集めているお寺です。境内には、裸足で踏むと御利益があると言われる仏足石や、知恵や技能に御利益があるとされる仏手石、1つだけ願いを叶えてくれる一願弁天など、お詣りしたくなるものがたくさんあります。また本堂前の左右には大きなソテツが繁り、正面には樹齢約1000年のイブキビャクシンが威容を誇っており、寺の古い歴史を物語っています。


八坂時の万体仏

 次に向かうのは47番札所八坂寺です。県道から少し西に入った所に広い駐車場があります。本尊の阿弥陀如来は恵心僧都の作と言われ、50年に1度の御開帳の時にしか見ることができないのだそうです。次回は2034年とのこと。本堂地下には信者が納めた万体仏があり、天井の高さまで前後左右にびっしりと仏像が並んだ光景には圧倒されました。





文殊院本堂

 さらに県道を進んで訪れたのは『文殊院』。四国遍路の開祖と言われる衛門三郎(※下に関連記事)の屋敷跡に建てられています。四国八十八ヶ所発祥の寺と称され、別格霊場第9番のお寺です。元は徳盛(とくじょう)寺と呼ばれていましたが、弘法大師が文殊菩薩に導かれてこの寺に逗留したことからこの名前に改められたそうです。弘法大師が四国で唯一、衛門三郎の子どもの供養と、悪因縁切の修法(密教で行う加持祈祷)をされたとの言い伝えが残っています。

かつての遍路宿『坂本屋』

▼へんろ道を辿って
 県道194号と並行して南に延びるもう1本の県道207号(三坂松山線)に移り、さらに久谷を巡ります。南に向かって道なりに車を進めると、幅員が狭まり勾配は急で山懐に深く入って行くのですが、民家がけっこう続いています。この道はへんろ道でもあって、途中には行き倒れになったお遍路さんの墓なども見られます。山の中にしては大きな建物『坂本屋』が見えてきました。50年来廃屋であった遍路宿の坂本屋は、平成16年に地元の人たちやNPO法人の手によって、現代のお遍路さんの休憩の場として蘇っています。3月から11月までの土曜・日曜日に、ボランティアによるお接待が行われています。

かつての遍路宿『坂本屋』
車道の終わりにある立て札

 もう少し先に進んで、車が通ることのできる最後の場所まで行ってみました。そこから標高720bの三坂峠まで、2.6qと立て札がありました。ほんのしばらく歩いてみましたが、急峻な山道です。札所の順番でいくならば、ここを下ってやって来る人が多いのでしょうが、かなり厳しい山道だと想像します。






弘法大師が投げたと言われる「網掛け石」

 北へ引き返してへんろ道を行くと、道の傍らに突如現れた巨石は『網掛け石』です。道行く人の障害になっていた巨石を、弘法大師が葛で編んだ網に入れて棒で担って動かしていたところ、棒が折れてこの地に石が落ちたという伝説があって、巨石の表面にある網の目はその時のものだと言われています。

 久谷では、そこここに弘法大師の足跡が見られます。今はあまり姿が見えない時期ですが、春には多くのお遍路さんで賑わう久谷路です。

四国遍路の元祖『衛門三郎』
河野衛門三郎の碑=文殊院境内

 伊予の国を治めていた河野家の一族で、荏原郷(松山市恵原町=旧久谷村)の豪農・衛門三郎は強欲非道な人物で、ある日、托鉢に来た僧を追い払うために、竹のほうきで僧が捧げ持つ鉢をたたき落としました。鉢は8つに割れてしまいました。
 その次の日から衛門三郎の5男3女の子どもたちが毎日一人ずつ次々と亡くなって、8日目にはみんな死んでしまいます。悲しんでいる衛門三郎の夢枕に弘法大師が現れ、衛門三郎は自分が乱暴をはたらいた僧が弘法大師であったことに気付きます。衛門三郎は、弘法大師に許しを請うために、大師の跡を追って四国各地の寺を巡るようになりました。
 四国八十八ヶ所を順打ち(番号の順に)で20回廻っても大師に会うことは叶わず、今度は逆打ち(逆周り)に歩き始めて12番焼山寺でやっと大師と巡り会うことができました。しかしながらその時には、衛門三郎の命は尽きようとしていたのです。弘法大師に非を侘びて許しを請い、「生まれ変わって国の領主となって、人々のために尽くしたい」と願いを言いました。弘法大師は「衛門三郎再来」と石に書いて衛門三郎の手に握らせると、衛門三郎は息を引き取りました。

(左から)弘法大師、衛門三郎の妻、衛門三郎の碑=文殊院境内

 伊予国の領主・河野家に生まれた男の子は、3歳になっても左手を固く握りしめて開こうとしません。河野家の菩提寺・安養寺の住職に祈祷してもらったところ、左手の中から「衛門三郎再来」と書かれた石が出てきました。石は安養寺に奉納されました。この故事にちなんでこのお寺は、『石手寺』(51番札所)と名前が改められたということです。

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