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10月に入り、県下各地でも次々と秋祭りが開催される。松山の秋祭りを皮切りに、祭りの渦は徐々に東予へと移っていく。祭りを迎えるに当たっては、幾日か前より街の角々に笹竹をつけた幟(のぼり)が立てられ、否が応でも祭りムードが高まっていく。
白地の幟は神々しく、紺と白に染め分けられた幟は賑わいを感じさせる。青い空に高くはためく幟は、実りの秋の象徴のようだ。多くの神社では、年間の最も大きな大祭として秋祭りを位置づけている。五穀豊穣を祝い、収穫に感謝するのが秋祭りだ。田畑を耕し種を植えて、水やりや病害虫に心を配りながら、何カ月も手塩に掛けて育ててやっと、実りの時期が訪れる。
古くから人々は、汗水流して働いて大きな収穫を得て、心から感謝をして祭りを迎える年もあっただろうし、苦労のかいなく不作にあえぎ、神仏に祈るだけの祭りを過ごす年もあっただろう。いずれにしても、自然が相手で、自然のなすがままを受け入れなければならない時代があった。
今年は、米の作況指数が全国平均で92の『不良』であり、1993年以来の米の不作の年となった。日照不足による冷夏が原因だ。農業技術が未発達な時代であれば、私たちは、たちまち餓えに苦しまなければならなかっただろう。今やいかに冷夏と言えども、ある程度の収穫は確保されるからありがたい。科学がいくら発達しようとも、人間には太刀打ちできないものが厳然としてあるのだと、またもや思い知らされた。
今年は、さくらんぼの盗難に始まり、梅、ぶどう、梨、メロンなど高級品を中心にごっそり盗難される事件が相次ぐ。米の盗難事件も各地で頻発している。実りの時期を迎えて実を一つも付けていない果樹や、空っぽになってしまった倉庫を見ると、一瞬にして苦労が水の泡になってしまった生産者の人たちが気の毒でならない。
このようなニュースを見聞きするたびに、多くの人が寂しく悲しい思いになっているだろう。「人の心もここまでになったか」と。食べる物がなくて困り果て、止むに止まれず人の物を盗んだというのとは明らかに異なり、売るのが目的で盗っていくのだ。作物には、生産者の実りを待つ心が吹き込まれている。「丈夫に育てよ」「大きく育てよ」「美味しく育てよ」と、心の中で祈りながら作物を育てる。農作物に限らず生産者の人たちが、「我が子同然に思って育てます」と言うのをよく耳にする。人の物を盗れば、そこに乗せられた人の心まで盗っていくことになる。
最近の犯罪の手口は荒っぽい。犯罪に至る理由も、ほとんど酌量の余地のない自己中心的なものばかりだ。自己の欲求を満たすために、簡単に罪を犯す。景気の回復も未だ多くは望めず、何となく荒んだ感じの世の中であっても、人心まで荒みたくはない。もう少し温かで優しくありたいと思う。
スーパーの店先などで場所を借りて物品販売する人たちは、以前は営業が終わっても品物をどこかに片付ける訳ではなく、シートを掛けるだけでまた翌日は品物を広げて営業をしていた。そのような光景を見る時に、つくづくと安全で治安の良い国に暮らす幸せを感じたものだ。出掛けた先で時折見かける野菜や果物の無人販売は、田舎ののどかな風景そのものだが、昨今の風潮を思えば、もういつまでもは続ないかも知れないと感じる。
社会がこんな風であるから心が荒むのか、人の心が荒んだから、こんな社会になっているのか。にわとりが先かたまごが先かではあるが、社会は人がつくり「人ありき」であるのだから、人が心をしっかりと立て直せば社会風潮も少しずつ良くなっていくはずだ。まずはじめに、自分の心から見直そう。
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