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やっぱり無関心だったのではないだろうか。気が付いてはいたし、気にもなっていただろうけれども、これほどまでの結果になったことから見れば、事態にぐっと手を突っ込むほどに、少年のことに関心を寄せる人が少なかったのだろう。
またしてもいたましい児童虐待である。岸和田の中学3年長男虐待事件は、ことが解る年齢であるが故に、なおさら少年がかわいそうでならない。ここに至るまでに、どこかで何とかならなかったものか。学校はどうだったのか、近隣はどうだったのか、身近な人たちはどうだったのか、役所関係はどうだったのか、一つひとつ見直す必要がある。
家庭内の出来事は、他人は非常に扱いにくい。学校も行政も、ある程度のところまではできても、その先に進むことは難しいのはよく解る。それでもなお、誰かが何かを、もっと積極的にしなければならなかったのだ。「どうしたのだろう」と疑問に思った人や「おかしいのではないか」と感じた人が、もっと声を発すればいいし、もっと行動に移せば良かったのだ。けれども誰がその『誰か』になるか、それが問題なのだ。
児童虐待の早期発見には、周りの人の協力が不可欠であると聞く。『誰か』になるには勇気がいるし、言ったこと、したことに対する責任がついてくる。人への関心は、人を思う心から発したものであれば、理解も得られるし良い方向に働く。できなかったのは、結局は関心が薄かったのではないだろうか。
先だっての大阪府知事選挙では、40パーセントそこそこの投票率であった。若者の政治離れが懸念されるようになって久しいが、『政治離れ』と言うよりも、無関心なのだろうと思う。誰かが国やまちの舵取りをするから、秩序だった社会生活を送ることができる訳だ。無関心である世代が社会の中核をなすようになった時には、一体どのような世の中になるのだろうか。
何週間か前に目にした記事である。妙に心に留まっている。強盗に入られたコンビニの店員が、買い物客に「強盗だ」と必死で助けを求めたが、客らは「訓練です」と言う強盗の言葉の方を信じて何もしてくれず、結局強盗は目的を果たして逃げたということだった。私ならどうするだろうか。
訓練だと思ったと想定してみよう。私なら、このような機会に遭遇するのも何かの縁だと思って、客の立場で訓練に参加するだろう。では訓練ではなく事件だと認識をした場合、どのような行動が取れるだろうか。通報の協力をするとか、人相や逃走経路を覚えるくらいはできるだろうか。いずれにせよ、無関心ではないと思う。『誰か』がするだろうと考えるのではなく、自分にできることをしようとするだろう。
私は元来、好奇心旺盛な人間だと思う。小さな頃から、何だろうとかどうしてだろうと疑問に思うことは、自分で知りたくてしかたがなかったし、試してみたくてしかたがなかった。興味本位に物事に関心を寄せるのではなく、求知心と言うのか、幼いなりに物事を探究する心が強かったからではないかと思う。今でも、見るもの聞くものに興味が湧き、追求しようとする心は大きい。
それは楽しいことや面白いことばかりにではなく、人が困っていることや人が苦労をしていることに対しても同様である。耳に入った以上、目に留まった以上、無関心ではいられないところが私にはある。大きくはできずとも、せめて縁ある人たちくらいには、人を思う心で関心を持っていたいと思っている。
体験学習にやってくる子どもたちにも「自分のことばかりではなく、人のことを考えられる人間になって下さい」と話をする。人への無関心は荒廃につながる。正しい関心を持っていたい。
(教育情報新聞社代表)
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