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『カチャッ』。普段あまり聞かない音が外から聞こえてきた。事務所は、交通量の多い国道に面した場所にある。トラックやトレーラーなどが重い音を響かせて走っている中で、自転車のチェーンが外れたような音に聞こえた。ふと見ると、1台の自転車が事務所の駐車場に入り、後から次々と人が続いた。他の人たちは道端に自転車をとめている。どうやらサイクリング中の若い人たちのようだ。やがて自転車をひっくり返して、修理を始めた。
ところが彼らの誰一人として、事務所の者が出入りをしても声をかけようとしないし、もちろん断りに来る様子もない。邪魔になっている訳ではないが、窓越しに双方が見えているものだから時間が経つほどに、ちょっと居心地の悪さを感じ始めた。
向こうが来ないのならこちらからと思って、声をかけることにした。「どうかしましたか」と尋ねると、「パンクをしてしまって」と答え、「済みません。ここでさせてもらってもいいですか」と初めて言ってもらった。リーダーらしい学生も話に入ってきて、場所を借りることへの断りをした。
東京の大学の自転車部の学生たちで、長崎を起点として高松までサイクリング合宿の途中だと言う。昨夜は近くのユースホステルに泊まっていたらしい。次第に会話が弾み、彼らの一生懸命さが伝わり、かわいく思えてきた。修理が終わると、大きく手を振って元気に出発をしていった。
話をすればなかなかの好青年たちであっただけに、だからこそ残念に思うのだ。広い場所を要する訳でもないのだから目くじらを立てる必要もないが、本当は最初に断りがほしかった所だ。断りなくその場所を使うよりも、すぐそこに人がいるのだから、一声先に出しておいた方が、どれほど気持ちよく事がはかどろうかと思う。
けれども若い人たちは、そのような事には無頓着であったり、気が付かないのだろう。また、邪魔になっている訳ではないから、とも考えていたのだろう。話し掛けてみると彼らは、すべきことを知らない訳ではなく、仕方を知らないのだと判った。私は、こちらから声をかけてみて良かったと思った。
今年の始め、駅のホームのコンセントから携帯電話の充電をした人が、窃盗容疑で摘発されたというニュースを聞いた。被害額は1円にも満たないが、自分のものと人のものとのけじめを付けられない人が増えてきたことへの警鐘なのだろう。先日も街を歩いていて、アーケードの支柱のコンセントから自分の携帯電話に充電をしている若者を見かけた。このような時代なのだ。
「このくらい」とか、「咎め立てされるほどのことはないだろう」という考えの中に、甘えがありはしないだろうか。辞書によると『甘える』とは、「相手の理解や好意を予想した上で、なれ親しんだ行為をする」とある。『甘い』とは、「厳しさや鋭さや強さに乏しいさま」とある。甘い世相が先にあるから、そこで育つ子どもたちに『甘え』の体質ができ上がるのだろう。
今の子どもたちは、物質には恵まれて豊かな生活を送っているが、練り鍛えられるものがなく精神が虚弱だ。子どもは家の中で、誰に遠慮することもなく自分の意思を押し通す。親が許してくれることを知っているからだ。甘えの体質はいずれ人を駄目にする。甘えのつけは先々必ず自分に返る。
学校や社会の役割は役割として、子どもをしつけるのは親の役割であると、親自身がしっかりと認識しなければならない。豊かで情報過多の時代だからこそ、家庭の在り方が問われる。親は子どものためにどうするのが良いのか悪いのか、取捨選択の目を養わなければならない。
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