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人生の『師』と言うか、人の生き方を示して下さった先生の下で学ぶようになったのは、30年余り前のことだ。二十歳過ぎの駆け出しの身からすれば遠い存在の先生は、同じ建物の中にいながら、いつでもお目にかかれる訳ではなかった。
ある温かな日の午後、先生がふらりと事務局に立ち寄られた。ところが私はその時、不覚にも居眠りをしていたのだ。頭に衝撃を感じてやっと目が覚めた。先生が、室内で履かれている革のスリッパを脱いで、私の頭を叩かれたのだ。痛くもあったし、他の人の面前ということで恥ずかしくもあったが、それよりも何よりも、先生に叱られたことが嬉しかったのを覚えている。周りの人たちも、なぜか喜んでくれた。
東京で珍しく雪の降った日、先生のお宅に雪かきに行ったことがある。私は、冬場に雪の降り積もることもある祖谷の出身であるので、雪かきに必要な道具を作って持って行った。それがたいへん重宝がられて喜んで頂いた。またある時には、失敗に端を発してひどくご注意を受ける所となり、「田舎に帰れ」とまで言われて、すっかりしょげかえった時期もある。師の思い出はいつも新鮮で、語っても尽きない。
いつの頃からか私は、先生がお帰りの時にお見送りをさせてもらうのが日課となった。車の近くでお見送りができる立場ではない。先生が帰宅されることが事務局に伝わると急いで地下に駆け下り、大きな柱の陰に立って、車に向かって礼をしながらお見送りをしていた。ある時、先生が「いつも見送ってくれてありがとう」と声を掛けて下さったことがあった。先生はご存じないとばかり思っていたので、私は驚いた。師は、ちゃんとお判りだったのだ。
『一子相伝』(学問や技芸などの奥義を自分の子の中の一人だけに伝えること)という言葉がある。伝統的なものを、確実に次の世代に引き継いでいくための一つの手段だ。古い時代から伝わり、現在も、そしてこれから先も変わってはならないものは、個々の個性や価値観によって勝手に変えられる訳にはいかないのだ。
自分の修得したものを完璧に次代に残していくには、受け継ぐ者に細部にわたって緻密に伝えていかなければならない。伝える者にとってみれば、他人よりも自身の子どもに伝える方が、よりくみしやすいのだろう。
親子が生活をする中で、自然と子どもに伝わる親の考え方や価値観がある。知らず知らずの内に、親子で仕草が似る、言葉遣いが似る、しゃべり方が似る…というように、意識して真似るのでなくとも、自然に似てくるものがある。親の一挙手一投足を子どもは間近で見ている。親を師として、子どもを弟子として物事を伝えていくのは、親子であるが故の困難さもあるが、『一子相伝』の言葉が残っているように、古くからその価値の大きさを誰もが認めているのだろうと思う。
それならば、実際の子どもでない弟子が、師から学ぶことができないかと言えば、決してそうではない。弟子が子どもの如くであれば、教えてもらい受け継いでいくことはできる。親が1人しかいないように、師と仰ぐ人は唯一1人と思い、師を慕い尊敬し、何事も師に合わすことで、子どもの心になっていく。弟子がそのような心で臨めば、師は、遠慮することなく叱ることができるし、名前を呼び捨てにすることもできる。師と弟子がそのような心になった時に、師は惜しみなく自分の持てるもの全てを伝えてくれようとするだろう。
遠い日、師に叱られたのに周りの人が喜んでくれた意味が、よく解る。親に喜んでもらいたいように、師に喜んでもらいたい気持ちになれば、弟子と言えども師の子どもになることができる。
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