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常々、どうもトイレの掃除の仕方が気になっていたものですから、特に若い世代の人にこのような方法があるのだと覚えてもらいたくて、私の掃除の仕方を見てもらうことにしました。私は十代の頃から、人としての心の在り方を問う勉強をしながら今日に至っています。掃除の仕方ひとつをとっても、そこから学ぶことは大きかったと感じています。
大阪で生活をしていた頃、いちばん最初に勉強の場を訪れたのは真冬の早朝でした。出掛けてみると、40代くらいの婦人が2人で掃除をしていました。初めての参加とはいえ、見ているだけでは申し訳ないので「雑巾を貸して下さい。僕もします」と申し出ました。
バケツに手を突っ込んだ時に、正直なところ「しまった」と思いました。バケツの中は冷たい水だったのです。水で拭き掃除をするのは当たり前ですが、真冬の水の冷たさに心が一瞬ひるみました。冷たい雑巾を持つと、手がすぐにかじかみました。しばらくすると今度は、指先まで痛いほどにじんじんとしてきました。それでも自分で言い出したことですから、最後まで拭き掃除をしました。
勉強の会にしばらく通った頃、たまたまトイレ掃除をしているのを見て驚きました。そこでは誰もが、事も無げに素手でしているのです。まるで手の指を掃除用具のように使って、1つひとつを掃除していきました。使っても使わなくても毎日掃除をしているものですから、勉強会が行われている会場のトイレは、どこもいつも清潔に保たれていました。ですから驚きはありましたが、私自身が素手で行うにはあまり躊躇はなかったように思います。
その後縁があって、その団体の本部事務局へ奉職することになりました。ここでももちろんのことそのような掃除の仕方が行われていたのですが、寮も本部事務局もいつもきれいであるので、素手での掃除は何ら苦になることはありませんでした。ところが真価を問われる時が来る訳なのです。
本部に奉職している青年たちは、時には公衆トイレの掃除をすることがありました。講演会などに大勢でバスで参加する時には先発隊となって出掛け、後からやってくる人たちのために、使うであろう公衆トイレの掃除を各所で行うのです。30数年前の公衆トイレと言えば、暗く汚く臭いのが当たり前の時代です。さすがに初めての時にはかなり抵抗感があって、「ここをきれいにしましょう」と先輩から言われても、進んでする気持ちにはなれませんでした。
バスにはバケツやタワシ、雑巾など簡単な掃除用具が積み込んでありました。新聞紙を堅く棒状に丸めて汚れを落とし、素手でタワシや雑巾を持って洗っていくのです。胃から込み上げてくるものを我慢しながら、他の青年たちと掃除をしていきました。
ところが、ひどく汚れていたトイレが私たちの手によってみるみるきれいになっていくのを見ると、次第次第に汚いとか嫌だと思う気持ちが薄らいできました。そして、きれいになったことで気持ちの良ささえ感じ始めたのです。以来、公衆トイレの汚さにはその度ごとに閉口はするものの、汚いものや醜いものを避けようとする心は無くなっていきました。
今回、私が手を使って便器の隅々まで掃除をして見せると、「カルチャーショックを受けた」と感想を述べた青年もいましたが、みんな一様に「そんな仕方もあったのだ。嫌がらずにやってみよう」と、さっそくその日から素手でトイレの掃除に取り組み始めました。毎日掃除をしているのできれいなはずだと思っていた所も、表には見えていない所は水あかなどで汚れていることにも気付きました。トイレの掃除の仕方ではなく、心を学んで頂けたのではないかと思っています。
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