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私には、年に2回の誕生日があります。1つは戸籍上の出生の日である7月1日で、もう1つは実際に生まれた日の3月25日です。先日、その誕生日を迎えて、私も実質的には1つ歳を加えたことになりました。
小さい頃から、半ば仮死状態で生まれてきたことを繰り返し聞かされてきました。生まれたての小さな赤ん坊に、ねぶか(ねぎ)で息を吹き込んで蘇生させたのだそうです。まだまだ世の中が豊かでない時代であり、しかも不便で厳しい生活環境の山村のことですから、そのような状態で生まれた嬰児が育つ可能性は低いと思われていたのでしょう。すぐに出生届が出されることはなく、育つ目途が立ってからやっと届出が出されたという訳です。
二十代後半か、あるいは三十代前半の頃だったでしょうか、私の人生は生まれた時から余生である、と感じるようになりました。働き盛りの若者が『余生』などと言いますと、厭世的であったのかと思われるかも分かりませんが、決してそうではないのです。
私はその当時から、人の悩みや相談に向き合うことが多く、人の生き方というものを見せて頂く機会が多くありました。いろいろな方々の人生を見聞きするにつれ、私自身の生き方を定めていこうとしていた頃です。私は生まれた時に、もしかすれば命を落としていたかも知れないのです。プラスαで1つ命を頂いたと思えば、自分のためだけに生きない道を歩まなければと強く思い始めていました。そのような意志が、『余生』という言葉となって現れていたのではないかと思います。
1951年生まれの私は、子どもの頃、21世紀を迎える頃には50歳近くになっているのだが、世の中はどうなっているのだろうかと、よく空想を巡らしていました。現在の子どもたちも、次の時代の区切りとなる2050年に思い巡らすことがあろうと思います。
2050年と言いますと、その年までに温室効果ガス排出量を50%削減することが社会全体の大きな目標となっています。私は環境問題に強く関心を持っていますので、3月の中旬に東京で開催された地球温暖化防止のシンポジウムを聴いてきました。地球規模で懸命に環境問題を訴えているパネラーの人たちの話を聞いておりますと、私の取り組みなどは小さなものだと思いました。けれどもその小さな取り組みが、本当は最も大切なものなのです。
「明日世界が滅びるとも、今日あなたはリンゴの木を植える」と話されるのを聞きました。地球の温暖化阻止は、現代の私たちにとっては大きな課題です。けれども1人ひとりがこのリンゴの木を植える精神を持てば、できない話ではありません。1人ひとりの行動が、大きな目標に到達する確実な一歩となっていきます。2050年の地球環境が、現在よりも良いものであるかどうかは、どんなことがあってもリンゴを植え続けるかどうかに懸かっているのではないかと思うのです。
私が子どもの頃には未来であった21世紀に、私が子どもや孫と共に暮らしているように、未来はやがて現在となり、そして過去となっていきます。私は今、「自分さえ良ければそれでよい」「今さえ良ければそれでよい」との社会風潮がある中で、人のために生きるとまではいかなくても、自分のためだけではない生き方をしてみませんか、と訴えています。短く言えば『自分のために生きない』のです。
「自分さえ良ければ…」、「今さえ良ければ…」の考え方には、人との繋がりがありませんし、未来への広がりもありません。『自分のために生きない』のは、人のことを思い、未来のことを思う生き方です。殺伐とした事件が続く現代社会や未来に残すべき地球環境を思う時、人の心が1つになればと思います。『自分のために生きない』―我が人生を余生であると思っている私が、大切にしたい言葉です。
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