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古いアルバムを眺めていました。20歳そこそこの私が、数人の青年らと厨子の海辺ではしゃいでいる写真があります。頭上にはスイカが飛んでいる、何ともユニークな写真です。「君たち、何をしてるんだ?」との師の問い掛けに、「スイカ割りであります」と答え、「証拠は?」と再び問われて、私が「これですっ!」とスイカを放り投げた瞬間を捉えた写真です。
日常は厳しく規律に則った生活をしていた私たちではありましたが、先生方と余暇を共に過ごさせて頂く時、このような楽しい一時もありました。人生を『天地人』で言うならば人の時代、つまり青年期に、影響を受けた方々のことを思い出します。
大阪で過ごした青年期に、私に、人の生き方を問う学びがあることを教えてくれたのはFさんでした。アルバムの最初のページの中央に1枚だけ収められている写真はU先生で、私を学びの会の東京本部事務局へと強く押し出して下さった方です。FさんやU先生との出会いがなければ、今の私の生き方はなかったであろうと思います。
東京時代に私に影響を与えて下さったのは、KさんとN先生です。本部で学んだ青年が1人でも地方に帰って、地域に貢献すればとの持論を持たれた二人に影響を受け、その任を私がさせて頂くことになりました。本部を退職する時にN先生が『やはり野におけ蓮華草
好漢再び相見える時には 何事かを為しとげておられたし
健闘を祈るや 切に』という言葉を下さいました。
私はその当時、何年か経てばいずれ東京に呼び戻してくれるという期待を持ちながら、地方に出て勉強することも必要なのだと思って頑張っていました。ところが私を取り巻く環境が、いつしか本部を辞した時とは異なり、この先、私はどうなるのであろうかと思い始めました。そのような時に、N先生をお訪ねしたのです。
私の話を聞いて北海道出身のN先生は、その地で昭和初期に実際にあった話をしてくれました。私が置かれた立場に通ずるものがあるのを感じ、その話が本になっていることを知って読んでみました。内容はおおよそ次のようなものだったと記憶しています。
〜津波に襲われてほとんど崩壊をした小さな町の病院に派遣された若い医師が、人々に受け入れられないながらも、1年経てばまた大学に呼び戻してくれるだろうとの希望を持って頑張っていました。病院といっても無い物づくしの環境で、虫垂炎の手術をしたり子どもを取り上げたりと、様々な経験をしていきます。数年経った頃に、都会の病院に戻る機会があったにもかかわらず、住民から請われてその地に留まります。年齢を経ていよいよ町を離れようとした時には、さらに地元からの熱い要望があり、医師は、第二の故郷であるこの町で地域医療に人生の最後まで貢献する道を選びます〜
よそ者を毛嫌いする風習の中で、理解されないことも多くありながらも1人で頑張り、やがては地元の人から慕われ、感謝され、なくてはならない存在となっていったお医者さんの話でした。
N先生からこの話を聞かせて頂いた時、医者とは違う道ではあるけれども、人の生き方や心の在り方を伝えることで人を救っていくという意味では、必要とされる存在になり得るのだと、自分で自分を励ました時期がありました。
最近、NPOの活動を通して「ありがたい」とか「感謝します」とかお礼の手紙やはがきを頂くようになりました。中には「配食サービスのお弁当が命の綱です」とまで書いて下さっている人もいます。そのような文面を目にしますと、私もありがたい思いになって胸がジーンとします。
人の時代に学んだことを実践実行し、NPO活動の中に活かしています。地域に必要とされる活動を行いながら、せめて一部の人からでも「お陰様で」と言われるようでありたいと思います。
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