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4月の上旬、NPO法人のジュニア会員の子どもたちが、今年から借りることになった農園で野菜の種まきをしました。畑に立つと、南手には頂きにうっすらと雪を被った山々があり、北側にはゆったりとした瀬戸内海が広がっているのが見えています。市街地に近い場所ながら、自然に恵まれたのどかな景色の中での種まきです。
10年余り耕作されていなかった畑を役立たせてもらいたいとの申し出があり、大部分を高齢者のための配食サービスで使う野菜づくりのスペースとし、一部分を子どもたちも楽しむことのできる菜園に使わせてもらうことにしました。雑草が茂るばかりであった空き地が、お世話をして下さる人たちの手によって、きれいに畝が立てられた広い畑に変身をしていました。
にんじんやインゲン豆、小松菜や青梗菜など、手間がかからず、早く収穫ができそうなものを選んでくれていました。子どもたちは、小さな手に種を持ち、パラパラとまいていきます。土を深くかぶせ過ぎるとひょろっとした茎にしか育たないこと、肥料が多過ぎると肥料に負けてしまって育たないことを教えてもらって、上から少し土をかぶせて、肥料を少しずつまいていました。畝の端に、野菜の種類と種まきをした人の名前を書いた木の札を立てて完了です。
野菜の種を植えるまでも、植えた後も、いろいろとお世話をしてくれる方々がいます。また子どもたちのグループでは、中高生は、小学生の面倒をよく見ています。広い畑の中で、子どもたちはのびのびと種まきを楽しんでいました。自然に恵まれ、人の心に恵まれた環境の中での菜園づくりです。このような食育体験は、子どもたちの感覚の中に何を残していくのでしょうか。
私は、子どもの頃から、『おおらか』という言葉について考えることがよくありました。幼い時に私がイメージしていたおおらかとは、光溢れる景色の中にありました。私の考えるおおらかは、どういう訳か形があるようで、指で押さえるとそのまま沈み込んでしまうような柔らかさがあって、手に持とうとすると、するりと逃げてしまうようなものでした。おおらかという言葉に、そのようなイメージを持っていました。
それはどうしてかと言いますと、生まれ育った徳島の実家の庭から眺めていた景色に関係しているのだろうと思います。山深い地の傾斜地に立つ実家の庭からは、眼下を見下ろせば祖谷川の流れが見え、正面を見れば向かいの山々がよく見渡せます。時折、出会す景色がありました。
陽が陰って暗かった山の向こう側が次第に明るくなり、辺りから黄色みを帯びた光が差してきて、山を明るく照らし始めるのです。そのような光景を目にした時に、思わず「うわぁー」と感嘆の声が出ました。
その光は、徐々に山のこちら側も照らし始めます。次第に私の方に近づき、私の身体を照らしながら通り過ぎて行きます。何とも表現し難いのですが、光の中にいると、心が穏やかになると言いますか、ほこほこと温かい思いが身体から湧き出て来るように感じました。おおらかとは、この光のようなものではないかと思ってきました。
人は、実際には光を掴むことはできないのですが、それでも光のようなものを求めているのだろうと思います。ですから光を感じる心だけは持っていたいと思うのです。そして、おおらかな気持ちを人に提供できる人間になっていきたいとも思っています。
心の様を形容する言葉は多々ありますが、言葉の意味するものは、肌で感じるもの、心で掴むものであろうと思います。体験の中から掴んだ感覚は、何物にも代え難いものであると思います。
畑の近くには、体験林も準備されています。自然に触れながらの食育と木育を通して、子どもたちの感性を大事に育てていければと思っています。
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