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一生懸命という言葉は、野球をする人たちが大事にしている一球入魂という言葉のようなもので、1つのものを追いかけ、ただひたむきに取り組む姿勢、『その時』に必死の思いで取り組む姿勢であろうと思っています。
私からすれば、何事に対しても一生懸命であるというのはあり得ないことで、「命を懸ける」と文字に表されているのですから、どのようなものにも命を易々と懸ける訳にはいかないと考えています。「いざ」という時のために、「この時だけは」という時のために、尽力するのが一生懸命の心であると考えた時期があって、今もそのことは大切にしています。
人をお世話する時も、この人のためにと思うのならば、どのようなことがあろうがそれに向かって邁進する心が功を奏して、良き結果を招きます。その時の一生懸命は、一つ間違えば谷底に落ちるほどの覚悟が必要だと私は思っています。ですから、人のお世話も中途半端ではできないのです。普段は何事もないかのように飄々としていても、ここ一番という時に全力を出して頑張ることができるのが大切だと思います。
若い頃、先輩から「これをしたのか」と尋ねられた時、その先輩の怒った口調からして、「私のできていない所を、指摘するつもりなんだな」と感じました。そこで私はちょっと考えて、「自分なりに一生懸命しました」と答えることにしました。そうすると先輩は、「『自分なり』というのは、自分で考えた範囲内での判断ではないか。一生懸命とは、人がそう思ってくれるもの、もっと大きく捉えるならば、宇宙自然が認めるものだってあるんだ。自分では一生懸命だと思っていても、人から見た時にそう思ってもらえないのなら、それは一生懸命ではないのだ」と言われました。その時に、一生懸命という言葉は安易に使うべきものではないな、と思いました。
若い頃に私が師事した先生は、事あるごとに「命に別状のない限り…」とよくおっしゃっていました。命に関わるような事でない限り、あれこれと思い煩ったり右往左往することのないように、という意味で使われていたのだと思います。私は、そのようにおっしゃる時の師の雰囲気やその言葉の響きが好きで、時折、その言い方を拝借して使っております。私が考える『一生懸命』は、師が口癖のようにおっしゃっていたその言葉に、付随するものではないかと思います。
『人事を尽くして天命を待つ』という言葉もあります。「人事を尽くす」という言葉も、自分なりの人事の尽くし方もあれば、「人としてこれ以上すべき事は無い」と言い切ることができる尽くし方もあります。私も、時として、その言葉を使うのに適切であるかどうかと思ったりするのです。「人事を尽くして天命を待つ」と言っても、人事の尽くし方にも人それぞれに違いがあるのですから、この言葉を使う時には、自分はどれほどの力の尽くし方ができているかどうか、省みる必要があるのではないでしょうか。言葉は知っているけれども、身を以てしていない場合が多いのではないかと思います。
自分が出す一つひとつの言葉の中に、意味がある訳なのです。意味があるものならば、意味があるなりに使うことが大切ではないかなと思います。その言葉を使うに値する時もあれば、そうでない場合もあります。それ自体を判らずに使うのは、自分自身をよく解っていないことになります。
食品は新鮮さが身上でありますが、中には寝かせて発酵させる方が旨みを増すものがあります。時間を掛けて発酵しておいしくなる食べ物があるように、言葉の中にも、発酵させるべき時間を要するものがあります。それをせずして軽々しく使っていれば、言葉自体に何の力もなく、言霊として人の心に響くものにはなりません。「一生懸命」も、「人事を尽くして天命を待つ」も、口から出すまでの過程が大切な言葉だと、つくづく感じています。
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